
『おっぱいとだっこ』(PHP研究所)
「おっぱいとだっこ」を書いた訳
『春秋』(2010年5月)掲載の文章を元に2024年に執筆しました。
相談する先がほしかった
私が「母乳110番」というボランティア団体の電話相談員になったきっかけは、自分自身が必要としていたからです。新生児の頃の娘は寝てばかりで、抱っこも授乳も十分にできないまま産院での生活が過ぎました。退院後も、娘がおっぱいをくわえてもすぐに離してしまい、40分格闘して飲ませても20分も持たず、またぐずり始めるの繰り返しでした。私は腕力がなく、痩せているため胸の高さもなく、無理な姿勢で抱っこするうちに手首を使い過ぎて腱鞘炎になり、ぎっくり腰、乳腺炎、乳首切れなど、あらゆるおっぱいトラブルに見舞われ、ろくに眠れない日が続き、泣いてばかりいました。
続きを読む
家族には「このままでは恭子ちゃんの体が参ってしまう。母乳をやめてミルクにしたら」と言われましたが、娘はアレルギーがあり、普通のミルクが使えませんでした。それに、アレルギーだからこそ母乳を続けたいと思いました。母乳外来や母乳マッサージなど、助けを求める先を片っ端から調べました。そこで分かったのは、母乳に関する相談先がほとんどないということでした。健康なお産や授乳は生活の一部とされ、乳腺炎などの炎症を起こして初めて医療の対象になるため、「赤ちゃんが泣いておっぱいを飲んでくれない」「おっぱいにしこりができて痛い」「体重の増えが悪いからミルクを足しましょうと病院で言われた。母乳をあきらめないといけないの?」「もうすぐ職場復帰。哺乳びんに慣らしておいてくださいと保育園に言われてやってみたが、嫌がってまったく飲まない。どうしたらよいの?」などの相談先はほとんど見当たらず、医療の谷間と呼ばれる状態だということが分かりました。
同年代は親がほとんどミルク育児しか経験していない時代。周りに母乳育児中の人が見当たらない。しかも子どもの数が少ないので、皆一人目育児、びくびくしながら暮らしています。私自身がそうでした。一日中大人としゃべることもなく、帰宅の遅い夫を待つ中で、生まれたばかりの命を24時間預かる緊張感に押しつぶされそうになり、育児書を読んでは自分の場合と比べてさらに不安になり、赤ちゃんをかわいいと思う余裕もなく、毎日暗い気持ちで過ごしていました。さらに、子どもを産んでみると、子連れの母親に対する世間は意外と厳しく「母親になったのだから当たり前」「今の母親は恵まれすぎ」と言われることもしばしば。本当にびっくりしました。特に怖かったのは外出時です。赤ちゃんを抱き、幼子の手を引いて駅の階段をのろのろと上がっていると、後ろの人から「ちえっ」と舌打ちされる。なんてギスギスした世の中になったのだろうと思いました。今のように便利な授乳服もなかったし、授乳室も滅多になく、何より子どもを連れているだけで世間が冷たくてびっくりしました。私が子どもの頃はもっとご近所にたくさんの赤ちゃんを見かけたし、もう少し皆のんびりしていたように思います。
春秋社シリーズの出版と重版未定
『おっぱいとだっこ』(春秋社)を上梓したのは2003年です。自宅にかかってくる相談電話の数は凄まじく、見かねた育児サークルの仲間と一緒に先輩ママによる週1回2時間の電話相談を立ち上げて10年がたち、母乳育児に関する情報はネットの発達から大量に世間に広まりつつありました。育児の世界では「うちもそうだったのよ」「なあんだ、みんなそうだったのね」と当事者同士が情報を共有し共感することで、8割がた解決すると言われています。それならば、母乳110番に寄せられるよくある悩みとそれに対する答えを本にすればいい。この本を読むことで「おっぱいとだっこ」の情報が広まり、悩む母親が減れば電話相談も必要なくなって、私の生活も楽になるのではないか。そう考えました。当時の私は、母乳110番運営のための寄付集めや相談員の研修、シフトのやりくり、保育の手配、資料編集や会計などの事務処理で疲れきっていました。
ところが、「おっぱいとだっこ」の出版は、私の生活を思いがけない方向に向けてしまいました。それは、度重なる増刷と反響です。ロングセラーという評価をいただき、書店で自分の本を見かけることが多くなりました。賞をいただいたり(ライターズネットワーク大賞)、講演依頼が増えたり、本当にうれしかったです。
しかし、肝心の電話相談は以前より増えてしまいました。なぜかというと、母乳育児の情報が少なかった頃は「何をどう聞いてよいかわからなかった」相談者が、本を読むことによって「ここをもっと聞きたい」と細かい相談をするようになったからです。図書館で読んだ人や、お祝いで本をプレゼントされた人が、妊娠中や入院中から電話してくるケースなど、早い段階から相談してくる人も増えました。
そこで次にわかったニーズは、離乳食でした。母乳育児の基本的なことを知り、順調な母乳育児を続けていても、ミルク育児の離乳食と母乳育児の離乳食は開始時期もやり方も全く違う上、子育て情報は商品情報以外ではとても少ないのです。そのため、「離乳食」をきっかけに母乳育児につまずく人が本当に多かったのです。「早くおっぱいをやめて三回食の習慣づけをしなくては」と母親が責められることも多く、これは何とかしなくては、ということで2006年に『おっぱいとごはん』を上梓しました。母乳育児の子どもの離乳食、移行期の食事、卒乳についてなど、広範囲の悩みに答える形の本です。こちらも好評をいただき、今度こそ私の仕事は終わった、と思っていたのですが…。
やはり相談は減りませんでした。知識を得ただけでは人は救われないと痛感しました。今までも絵を販売したり本の売り上げの一部を運営費に充てたりしていましたが、いつか母乳育児の本当の情報が広まって世間の常識になれば、母乳110番が必要ない世の中になる。それまでの辛抱だからと、あまり長期的なことは考えていませんでした。しかし、悩む人には本も相談員も両方必要だとつくづく思い知りました。そこで考え方を変え、長期的に安定した相談活動ができるように「おっぱい基金」をつくって寄付を募り運営費を捻出することにしました。私自身も覚悟を決め、生活の仕方を工夫し、講座の講師を引き受けたり(日本初の授乳服専門店「モーハウス」で現在も行っています)、積極的に取材を受けたり、大げさに言えば「おっぱいとだっこ」中心の生活にどっぷり浸かることにしました。
そして2010年、『家族のためのおっぱいとだっこ』を出すことにしました。今まで同様、おっぱいの本当のこと、抱っこの大切さを書いていますが、一番違う点は母親以外の人が読んでもすぐにわかる内容にすることです。当時、母乳110番には「出産後、娘がやせてしまって心配。授乳中の食事をどうしたらよいのか」というおばあちゃんからの電話や「孫が泣いてばかりで声を聞くのが辛い。母乳が足りないのではないか」というおじいちゃんからの電話、「妻が離乳食作りで苦労しています。何かよい方法があったら教えてください」というパパからのメールなど、母親以外の人からの相談が目立つようになっていたからです。この悩みに答えなくては、と思いました。コンセプトは「皆で育てよう」です。お母さんだけに母乳育児の正しい知識が広まっても、周囲の人間が無理解なままでは母親は悩みから救われません。もっとたくさんの人に「おっぱいとだっこ」の本当のことを知ってもらいたい。そして、子育てに関係ないと思っている人が読んでも面白い本を作りたいと思いました。
ところが。3冊目は増刷叶わず。しかも時々注文があった1冊目と2冊目も、増版未定(事実上の絶版。流通しなくなる)になってしまいました。数字が悪ければ商業出版ですから仕方ないのですが、「読者に申し訳ない」「この情報を求めている人がまだ沢山いるのに」とショックでなかなか立ち直れず、半年くらい泣いていました。
PHP電子から改訂版による再出発
ただでさえ、それほど数が出ない育児本なのに、母乳育児という読者が限定されるジャンル。あちこち出版社を回ったけれど、再出版を検討してくれる出版社はなかなか現れません。もう諦めるしかない。そう思っていた私が改訂版の執筆を決意した理由は、母乳110番にまだ電話が来ていたからです。開設当時のような電話が鳴りっぱなしの本数ではなくなったものの、相談は途切れずあり、電話口の向こうで「ありがとうございました。(母乳の本当の情報を)知らなかったです」「母乳110番があって良かった」と感謝する声をたくさんいただいていました。世間ではまだまだ母乳育児に無理解な人が多く、母乳不足だと決めつけられ「母乳にこだわりすぎ。ミルクを足さないと栄養不良になりますよ」、「断乳して離乳食が進んでからでないと入園できません」と無理解な宣告を受けて途方にくれるケースが多く、相談員も経験者ですから身につまされ一緒に泣いてしまうこともありました。
共感しながらも落ち着くのを待って「他の母乳ママはどうしているのか」を伝え、どんな方法がよいのか具体的な選択肢を一緒に考える「当事者ボランティア」は珍しかったのだと思います。頻度は減ったものの、相変わらず新聞やネットで取り上げてもらい、「おっぱいサミット」や「いいお産の日」などのイベントも細々と開催していました。だからこそ、再出版を諦め切れませんでした。「本の内容が広まって、母乳育児の本当のことが広まれば、母乳110番なんて必要なくなる。それまでの辛抱だ」そう思って走り続け、気が付くと25年が経っていました。
電子出版と新たなチャレンジ
2017年にPHP研究所から「電子出版しましょう」と言ってもらい『おっぱいとだっこ』を再出版することが出来ました。オンデマンドで紙の本も販売されました。初版当時のデータが現存しなかったこともあり、改訂版として新たに執筆。しかも母乳110番顧問の産婦人科専門医、村上麻里先生の監修の元に、新しい母乳育児の情報を入れて書き起こすことが出来ました。
図解も多くし、離乳食ではなく平行食の知識(授乳しながら2才以上でも好きなだけ飲ませつつ離乳食も与えることをユニセフとWHOが提唱)も入れ、働きながら母乳育児のノウハウ(昼間保育園に預けていても、子どもと一緒にいる時間帯の授乳で一日の総量が足りる変則授乳という方法がある)も入れた最新版を作ることが出来たのです。本当に嬉しかった。
当事者だけでなく、育児支援者からも多くの応援の声をいただき、皆で喜びました。
その時、私が驚いたのはこの時代の出版でした。社会的意義のある出版物だからということで電子版が時々無料で配信され、細々と反響がありました。さらに情報の広め方が昔とはまったく違いました。「HPでの告知はもちろんですが、SNSでもどんどん宣伝してください」「静止画だけでなく、著者動画も流してください」と言われたのです。SNSと言ってもブログを続けていた程度で、他は知らず、もう若くなかった私は「へっ?著者動画って何?」正直そう思いました。

時代の変化と適応
昭和30年代生まれにとって、パソコンの普及とそれに伴う生活変化は、のんびり手漕ぎボートに乗っていたはずが、いつのまにか高速船になり、気が付いたらジェット航空機で空を飛んでいた、くらいの感覚です。母乳110番も使用する機器が固定電話から携帯電話に変わり、近年はLine通話になりました。講座やイベントの告知方法も、公共施設にチラシを置くことはほとんどなくなり、ブログ更新だけでなく、様々なSNSを使った告知が主流になりました。時代に乗り遅れないよう、若い世代の仲間に助けてもらいながら今も四苦八苦中です。
母乳110番の現在
母乳110番は、本がロングセラーと呼ばれることからも分かるように、育児情報の中でも母乳という特に普遍的な内容を扱っています。そのため開設から30年以上経った今も、寄せられる相談の中身はあまり変わりません。1位:不足感、不安。2位:離乳食。3位:卒乳。10位まで長年同じような相談が寄せられ、それに答え続けています。だからこそ、時代に追われ、次々と最新の告知方法に取り組まないといけない日が来るとは思いませんでした。
育児という分野は、今一番若いゼロ歳を育てようとしている親が必要な情報を提供しています。だから伝え方も今の赤ちゃんを迎える世代に合わせた方法で行う必要があります。画像なしの文章だけの画面や、更新されないWebを見る人がいないのと同じで、出産世代の目に留まる「今」の方法でないと、悩む人の元に届かない。そう気がついてからはみんなで何度も話し合い、新しく公式サイトを作り、インスタを開設し、次の目標に向かって走り出すことにしました。それが絵本の出版です。
絵本の夢と現実
絵本を出すのは小さい頃からの夢でした。絵があると皆が見にきますし、絵本だと多くの人が読んでくれます。母乳育児の実用書は、出産祝いに使いにくい場合があるけれど、絵本なら妊娠出産や子育て中に限らず、子どもからお年寄りまで多くの世代が読者になります。それに、プレゼントとしても使ってもらいやすい。以前からそう感じていました。
いま私が描いている作品は、双子のママで絵本作家の友達が私のために文章を書いてくれた物語です。深い森の中に妖精のおばあちゃんが住んでいて、悩んでいる赤ちゃんたちが次々と訪れ相談を持ちかけると、じっくり話を聞いたおばあちゃんが「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とゆっくり声をかける……そんなお話です。
このおばあちゃんは、2歳の娘のわがままに疲れ果てていた私を「皆そうだから平気さね。初めての子はちやほやしすぎるからどうしてもこうなるの」と優しく慰め、「どうすればいいの」と泣く私に「このまま仕上げるしかないね〜」と豪快に笑い飛ばしてくれた姑がモデルです。その時、「え~っ。このまま仕上げる!」と一気に気が楽になって大笑いしてしまいましたが、今はそんな風に「大丈夫」と声をかけてくれる人が少なくなった時代なのではないかと思います。
作品への思いと表現の変化
必要に迫られ、読者の要望に応える形で文章、イラスト、マンガなど様々な表現方法を駆使して実用書を出してきた私ですが、絵本版『おっぱいとだっこ』は、まるで子どもの頃に戻ったように、ワクワクしながらあまり考え込まずに創っています。大好きな赤ちゃん、子どもたち、懐かしいおばあちゃん、森の動物たち、花や木、空と水辺――描いていて本当に楽しいです。
実は、画風も変わりました。子育て中はリアルな絵になってしまい、頑張ってもあまり可愛い絵にはならなかったのですが、母乳110番を開設して30年以上経った今、思い出が美化されたのか、私の気持ちが変わったのか、ロマンチックな絵柄に変化した気がします。
『おっぱいとだっこ』を書き始めた時、追い詰められた気持ちの乳幼児のママやパパが育児ノイローゼから救われますように、みんなが赤ちゃんのいる暮らしを楽しめる世の中になりますようにと願いながら本にしました。今はそれに加えて、赤ちゃんと子どもたちを取り巻く世界が、この絵本の森の中のように、祝福の花冠のように優しく美しく、そしてどこまでも温かいものでありますよう心から願っています。そしてこれからもそんな作品を創り続けていきたいと思っています。
竹中 恭子
母乳110番相談員、イラストレーター。
【母乳110番】
金曜日(祭日と第五金曜日は休み)10時~12時
ホームページはこちら
【おっぱい基金】
郵便振替口座「母乳110番」0020018172041

『だから、生まれてきた。』(二見書房)
『だから、生まれてきた。』
宇佐美百合子著、竹中恭子絵、リヨン社(現在の二見書房)
この本は、私が初めて作家からの依頼で絵を担当した作品です。それまでもイラストレーターとしての仕事はしていましたが、カレンダーや絵葉書、新聞、雑誌のイラスト、書籍の表紙の絵や装丁、カットなどが主な仕事でした。しかし、作家とがっつり組んで印税ももらえるような出版物の依頼は、その時が初めてでした。
宇佐美百合子さんは、アナウンサーからエッセイストに転身し、心にしみる言葉が若い女性に人気のベストセラー作家です。「笑っていいとも!」という番組に出演し、美貌と話術、立ち居振る舞いが凛として素晴らしく、企業のマナーや新人研修の講師としても引っ張りだこでした。そんな彼女が「竹中さんはお花の絵が特にいい。赤ちゃんもこのタッチで描いてほしい」と言ってくださったときは、飛び上がるほど嬉しかったです。
続きを読む
宇佐美さんは女性向けの作品を多く発表していましたが、私との出会いで母乳110番の話に感激し、今までとは違う女性層、赤ちゃんとママに向けて言葉を紡ぎたいと考えたそうです。しかし、若い独身女性の読者層が厚い売れっ子作家だけに、出版社は赤ちゃんとママ向けの本を出す企画にはなかなか乗り気になりませんでした。さらに、宇佐美さんは逗子から長野県の黒姫岳の麓に移り住み、わざわざ訪ねてくる人達だけに対応するスタンスで仕事をしていたため、会って打診するのも難しい状況でした。
しかし、私が本を出したことのある出版社の一つが名乗りを上げ、私を担当した編集者がこの企画を気に入って会議にかけ、会社としてのOKが出て、長野まで正式な執筆依頼と打ち合わせに行くことになりました。私も同行することになり、編集者と共に黒姫まで電車で向かいました。宇佐美さんは「本はご縁だから。出る時は出るし、出ない時は出ないのよ」と言っていましたが、本当にその通りだと感じました。
打ち合わせは「手に汗握る感じ」でした。構成、章立て、タイトル、コンセプトなど、宇佐美さんは一歩も譲らず、読者が求める方向に作り手たちを引っ張っていく姿に衝撃を受けました。初めて自分の担当以外の編集者と作家のやり取りを傍で見て、「丁々発止」というのはこのことかと感じました。
それまでの私はイラストと文章を使って綴った子育ての体験談が、読者に背中を押されて本になった、いわば素人の延長線上の気持ちでいました。しかし、この出会いで、私は物書きの覚悟を知りました。また、編集者の粘り強さと気迫にも圧倒されました。絵担当の私に対しても編集者は厳しかったですが、宇佐美さんは「きょんきょん(私は宇佐美さんにこう呼ばれていました)の良さは私がよく知っている。描きたいように描いていい」と励ましてくれました。
出版社の都合で、カラー印刷ではなく二色刷りになってしまったときは、宇佐美さんも私も本当にがっかりしましたが、どんな時もへこたれず、最善を尽くして力強く仕事を続ける彼女の姿を追いかけて、私も最後まで描き続けました。大好きな花と赤ちゃんを描く仕事は楽しかったです。二色刷りのために何度もやり直しながら描きましたが、最後の方はトイレも食事も眠ることも忘れて描き続けました。
努力の甲斐あって、たくさんの反響がありました。「母はこんな気持ちだったのかと胸が熱くなりました」「子育てが終わったのに、思い出が蘇って泣けました」「涙があふれて止まりませんでした」といった声が寄せられ、出版社からも「こんなに読者カードが来たのは会社始まって以来」と報告があり、本当に嬉しかったです。
その結果、二色刷りの地味な外観にもかかわらず、お誕生や妊娠のお祝い、母の日のプレゼントなどで購入され、6年かかって3回増刷するという、とても嬉しい結果となりました。この本は私にとって、絵描きとして、作家としての第一歩を踏み出した作品です。これからも大切に広めていきたいと思っています。

『まりもちゃんの野菜かんたんクッキング』(農文協)
あの時、がまんさせたからこそ、いま生きている!
『PHPのびのび子育て 2017年9月号』から転載。
本文:竹中恭子、リード文とプロフィール:PHP編集部
今では成人し、健康な日々を送るお子さんですが、幼い頃は重度の食物アレルギーで、親子ともにがまんの日々、たいへんなことが多かったという竹中さん。どうやって乗り越えたのでしょうか。
竹中恭子 (イラストレーター、ライター) 東京都生まれ。1995年から画業&文筆活動を開始。著書に「まりもちゃんの野菜かんたんクッキング」(農山漁村文化協会)がある。「母乳110番」電話相談員、講師としても活躍中。
うちの娘「まりも」は重度の食物アレルギーがあり、3歳まで卵製品、乳製品、小麦、大豆が入ったものが食べられませんでした。消化力のない娘は、生後1カ月くらいから湿疹だけでなく下痢もひどく、授乳している私のパジャマも「流れウンチ」でびしょびしょになり、一日に親子して何度も着替えなければなりませんでした。
夫は、山のような洗濯物を「世の中が黄色い~。世の中が黄色い~」と、私を笑わせながら洗ってくれていました。
続きを読む
痒みとの戦い
娘はやがて顔が真っ赤になり滲出液がしみ出し、それを小さな手で掻き壊すようになり、黄色い膿のようなものがカサブタ状に盛り上がり、顔の傷はどんどん酷くなっていきました。陰部や肛門周辺が赤くなり、尿や便が残るとすぐに真っ赤に腫れてしまうので、排泄のたびにお湯でお尻を洗い、乾かしてからおむつを当てる毎日でした。赤ちゃん用の手袋をさせ、夫と皮膚科や小児科を回る日が続きましたが、診断結果はどこも同じで「アトピー性皮膚炎?それは6カ月以上の慢性的経過をたどらないと断定できない」「原因?わかっていません」の繰り返し。しだいに医療不信が募り始めた頃、食物アレルギーの専門医に出会いました。血液検査の結果、卵製品、乳製品、小麦、大豆のアレルギーがあることが判明し、娘の治療生活が始まりました。授乳中の私にとっては「食べたいものをがまんする」日々の始まりでした。
食欲との戦い
卵製品がダメということは、卵や卵の入った加工品も含まれるわけで、「鶏の体から出たもの」がダメなわけですから、鶏肉はもちろん、チキンエキスなどが入っているスーパーの食品がほとんど食べられないことになります。乳製品がダメということは「牛の体から出たもの」がダメなわけですから、チーズや牛乳、それらの入った加工品もダメ。滑らかさを出すために脱脂粉乳が使われている蒲鉾などの加工品もダメですし、照りを出すために卵白が塗ってある焼き海苔やお惣菜もダメ。小麦に至っては、パンやパスタ、衣を使ったおかずもダメ。調べるとあらゆる食品に「つなぎ」として小麦粉が使われており、小麦が入っていないものを探すのは至難の業だということがわかりました。大豆もそうです。小麦と同じくらい、入っていない市販品は見当たらず、愕然としました。
しかもその頃の私は甘いものが大好きでやめられず、夫のおやつで台所に置いてあったシュークリームを口に入れてしまい、「あ〜幸せ〜」と思った瞬間、娘が痒がって泣き叫ぶ姿が思い浮かび、慌てて流しに吐き出す。そんなことを繰り返していました。それに、食べられないと思うと人間は余計に食べたくなるもの。がぶっと鶏のから揚げをかじって、じゅわっと口の中に肉汁が溶け出す想像をしては、食べたくて気が狂いそうになっていました。がまんできずに食べてしまったこともあります。「このくらいならいいだろう」と家族のワンタンスープをほんのひと口すすってしまい、後で授乳したら娘の口が腫れあがって切れたこともありました。そんなときは、娘に泣きながら詫びていました。
世間との戦い
そんなことはまだ、がまんのうちに入らなかったんだ、ということが卒乳してからわかりました。乳児のうちは母親である私が食べ物に気をつけていれば済んでいたのです。でも、成長して自分で食べ物を口に入れられるようになると、誤ってアレルゲンとなるものを食べてしまい、ショック症状を起こす可能性が出てきたからです。それは私にとって恐怖以外の何物でもありませんでした。可愛い盛りの幼児期。公園で、駅で、いろいろなところでお菓子をもらう機会があります。しかも自分で口に入れることができるのです。娘がアナフィラキシーを起こし、救急車で搬送される夢を何度も見てはうなされました。外に出るとそれが怖くて、5メートルと離れて歩けませんでした。
3歳になったとき、私はやっと腹をくくりました。重度のアレルギーがあるのだから、「この子はもしかしたら事故で死んでしまうかもしれない可能性がある」。それが現実なのだから仕方がない。「でも、ずっと親がそばに付き添って守ってやるわけにはいかない」。だからこそ「この子が自分で自分の身を守るようにもっていくしかない」。そう決心したのです。
決心してからは、「他の子は食べられるけれど、あなたは食べられない。アレルギーだから」と娘にハッキリ伝えるようにしました。体の仕組み、料理や食べ物の知識もどんどん教えました。事実を知ったとき娘は、「え〜。まりも、アレルギーじゃないほうがよかったな」と言っていましたが、その頃はもうアレルギーっ子のお友だちがたくさんいたので、「Aちゃんもそうでしょ。がまんしてるでしょ?」と言うと「うん。Mちゃんは小麦で、Sちゃんは牛乳だよね」などと言っていました。食いしん坊で好奇心の強い子だったので、食べたいものは山ほどあった、でも自分は食べられない、アレルギーだから仕方ない。そうやって娘なりに納得しようとして努力している・・・そんな感じでした。
自分との戦い
5歳頃、知り合いの食物アレルギーのお子さんが亡くなる事故がありました。そのお母さんは、学校給食を食べることができないその子のために、毎日お弁当を持たせ、手作りのいろいろな食事やおやつを工夫されていました。あんなに頑張っていたのに!本人もがまんしていたのに!私はものすごくショックを受けました。でもそれが現実なんだ、とも思いました。いつも母親が用意した安全なものを食べていると、何が危険で何が安全か見抜くことができない。だから、自分で安全なものを選ぶことができるように育てるしかない。どう堪えるか、手を出さないでがまんするかも含めて、身を守るすべを覚えさせるしかない。心の底からそう思いました。
そしてアレルギーがあると、いじめの危険もあります。小学校に入って「や~い、お前、これ食えねー!」とからかわれたときに、「アレルギーだもん!」と言い返せる強い子にしなくては、とも思っていました。
ところが、8歳くらい、小学3年生になった頃。お誕生会に呼ばれて何も食べずに帰ってきた娘に、「言ってくれれば、何か持たせたのに」「あちらのお母さんに説明したのに」と言ったところ、思いがけない言葉が返ってきたのです。「Bちゃんのママ、そういうの怖がっちゃうほうだから。飲みものだけ飲んでいればどうってことないし、言わないでおいたよ」と。
「え~っ?」そのときの衝撃を今でも忘れることができません。ただ、がまんするのとは明らかに違う!「ああ、この子はがまんするだけではなくて、周りにどう見えるかまで考え、工夫できるようになったんだ」。そう思いました。社会性の獲得とでもいうのでしょうか。そして「アレルギーがあってもこれから先、この子はきっと自分の力で生きていける」。そう確信しました。
娘は成人し、今では健康な日々を送っています。親子で当時のがまんの話をすることがありますが、「思い出したくない」そうです。思春期にもいろいろありました。娘の心の傷になっていると思うので、あれでよかったのか悪かったのか、正直、今も考え込むことがあります。
でも、 「あの時がまんさせたからこそ、いま生きている!」 そう信じて、これからも前を向いて歩いていきたいと思っています。

プロフィール
竹中恭子(たけなかきょうこ)
イラストレーター/著者
東京生まれのツイン。(双子の片方)
関東学院女子短大国文科卒業後、図書館勤務を経て結婚。
専業主婦になっても絵の仕事を諦めきれず、 武蔵野美術短大通信教育部美術科に入学。その後、新聞社勤務などを経てフリーランスで独立。
子どもの頃から花と聖母マリア様を描くのが好きで、主に赤ちゃんと花、大正浪漫の着物乙女、着物姿の聖母子の水彩画を描いています。使用画材は透明水彩、パステル、水性色鉛筆。
【主な著書】
『だから、生まれてきた。』(二見書房)
『おっぱいとだっこ』(PHP研究所)
『まりもちゃんの野菜かんたんクッキング』(農文協)