竹中恭子 イラストレーター
東京生まれのツイン(双子の片方)、鎌倉にあるカトリック雪ノ下教会信徒。「母乳110番」代表
関東学院女子短大国文科卒業後、図書館勤務を経て結婚。
専業主婦になっても絵の仕事を諦めきれず、 武蔵野美術短大通信教育部美術科に入学。その後、新聞社勤務などを経てフリーランスで独立。
子どもの頃から花と聖母マリア様を描くのが好きで、主に赤ちゃんと花、大正浪漫の着物乙女、着物姿の聖母子の水彩画を描いています。使用画材は透明水彩、パステル、水性色鉛筆。
【著書】
『だから、生まれてきた。』(二見書房)
『おっぱいとだっこ』(PHP研究所)
『まりもちゃんの野菜かんたんクッキング』(農文協)
昔から子どもや女性を花と一緒に描くのが好き。特に赤ちゃんは嬉しくて可愛くて、描きながら自分でニッコリしちゃいます。そんな風に見た人が笑顔になるような幸せな絵を、これからも描き続けることができるといいなと思っています。
以下は絵描きとして書いたエッセイです。(固有名詞等、掲載時と少し変えています。)
『鎌倉ペンクラブ会報』No.6(2011年7月)より転載
稲村ヶ崎の思い出
三鷹の助産院で母親と赤ちゃんの絵を描く仕事をした。
依頼者は友人のジャーナリストで、出産に関する研究者でもあった。
「授乳ポーズを描いてほしいのよ。文章だけだとどうしても伝わらないから」。紹介されたモデルは初産でまだ若く、小柄で華奢な人だった。私の目は抱かれている赤ちゃんに吸い寄せられた。小さい。ほっそりした手足がママそっくりだった。
若いママは抱き方が一生懸命でまだぎごちなかった。 出産後今日で二日目だという。「まだ会って二日目なのに、この子のことずいぶん前から知っていたような気がするんです。
きっとお腹にいるときずっと話しかけていたせいですよね」とそのママは笑った。授乳の絵は普段あまりない類のポーズだし、独特の構図になるが問題はそこではない。
人間の輪郭は、生まれたては鋭敏でシャープな線を描いているが、大人になるにつれてどんどんなだらかな線に変化していく。しわを描き込めば年寄りの絵になるわけではないし、丸くてやわらかな線を引けば子どもらしい絵になるかというと、違う。
大人の輪郭は経てきた年月がそうさせるのか、まるで世俗の波に洗われるかのように深い影を落としながら変化していく。それはそれで難しいのだが、赤ちゃんの絵を描くときはまた別の難しさがある。息をつめかなり鋭角に肌のラインを引いていく。相当鉛筆を尖らせる。そうしないと新生児の神々しいまでの若さが出ない。
私は夢中になってSさんという若いママと太郎ちゃん(仮名)と言う名前のその赤ちゃんを描いた。依頼されたポーズを描き終わってから私は改めて頼み、特別に太郎ちゃんだけを描かせてもらった。太郎ちゃんは眠ったり起きたりしながらよくおっぱいを飲んでいた。
色が白くて顎や首が細い。まつげが長くて少しまばらで、くちびるがふっくらしていた。本当にかわいい赤ちゃんだと思った。五時間くらい滞在しただろうか。友人とは後日、ラフ画を見せながら打ち合わせをすることになっていた。

私は今日した仕事に満足しつつ、今さっき描いた太郎ちゃんの絵を眺めながら三鷹の駅でのんびりコーヒーを飲んでから帰宅した。友人から電話がかかってきたのは、その晩の十一時すぎだった。「びっくりしないで聞いてね」「え?」「太郎ちゃんが亡くなったの」「亡くなった?」私は最初意味がわからなかった。だって生まれたばかりの赤ちゃんでしょう?「それが…… 竹中さんが帰ったあと、夕食後にくつろいでいたところに急に息をしなくなってしまって」。
私は絶句した。
「原因はわからないけれど、まれにそういうことがあるのですって。助産婦さんたちもついていたし、ママも窒息するようなことは何もしていないし」「突然死ってこと?」と私が尋ねると「そういうことになるのでしょうね」と言う。駆けつけてきた警察もひととおりの調べが済んで帰って、今静かに皆で太郎ちゃんとママを囲んで見守っているところだという。
「そうだったの…」私は息を吸い込んだ。
儚げで綺麗な赤ちゃんだったから神さまが連れて行ってしまったのか。それにしても…。私は妊娠をきっかけに入籍したという若いママのことを思い出して胸が詰まった。
「で、Sさんの様子は?」「泣いて泣いて大変だったけれど、今は落ち着いているわ。それで…..竹中さんにお願いがあるのだけど」。友人の口から出たのは思いがけない申し出だった。「Sさんは昼間竹中さんが描いた太郎ちゃんの絵がどうしてもほしいというのよ。この子が生きていた証がほしいのだという。「竹中さんがいてくださったとき、この子はまだ生きていた。だからその時の絵を手元に置きたいんです」。そう言っているのだという。
私は思わず声をあげて泣きそうになった。でも、紙はあまりに薄いもので裏打ちしてからでないと保存性がなく、送るのは心配だった。
そこで友人と相談し、今日描いた絵をファックスで助産院に送り、あとでちゃんとした紙に書いてプレゼントさせてもらうことにした。聞いた話によるとその晩、彼女はファックスで送られてきた絵を見て喜び枕元に置いて眺めながら休んだそう
だ。
絵描きというのは描いた対象を、本当によく覚えているものだ。私は太郎ちゃんの特長のあるちょっとそった指先や、やわらかな髪が額にかかっていた生え際の様子や、おぼつかない足の裏や、切れ長の瞳を思い出していた。スケッチブックを開けるのも辛かったが、十日すぎくらいに突然Sさん本人から電話がかかってきた。絵の正式な依頼だった。差し上げますと言ったが承知しない。
「竹中さんはプロですから。それに太郎はたった二日しかこの世にいなかったから、竹中さんは太郎のことを知っている数少ないひとりなんです。主人と相談して四十九日の法要に飾らせていただくことに決めました。ぜひお願いします」と言う。私はそれから毎晩、太郎ちゃんの絵を描いた。描けば描くほど涙が滝のように流れ、目が腫れて困った。モデルに死なれてしまったことも遺族からの依頼を受けて絵を描くのも初めての経験だった。
こんなに辛い仕事は初めてだと思った。でもこれは神さまがお前は絵を描けと言っているのだとも思った。何枚かを描き上げて送り、一点を購入してもらい、他はプレゼントさせてもらった。
ひと月くらいたった頃、Sさん夫妻はお礼を兼ねて鎌倉まで来てくれた。私たちは三人で江ノ電に乗り、稲村ケ崎海岸に降りて白く光る波を見ながら太郎ちゃんの話をした。本当に限られた時間を共有したんだなあ、と思いながら初対面の若いパパを見ると眉の辺りに見覚えがあった。首をかしげてからはっと思い当たった。「そうか。太郎ちゃんに似ているんだ!」
それを伝えると二人ともうれしそうに笑った。あれから六年。若いママはまだカウンセリングを受けているのだろうか。次の子を授かっただろうか。
稲村ヶ崎を通るたびにあのご夫婦のことを思い出す。そうして今も赤ちゃんの絵を描き続けている。
竹中恭子 イラストレーター